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 先日、久しぶりに私は白いYシャツを買った。

 気持ちのいいくらいのまっさらな白、というか、純白といってもいいくらいの完璧な白だった。

 でも、それは当然のように、最初だけである。着ていると、あるいは時間が経てば、その完璧さは徐々に失われていく。

 何も白だけではなく、それはすべての色に当てはまることだけれど、白という色は一番、その傾向が際立つような気がする。
 
 今回は事情があって、白いYシャツを購入したが、汚れが目立ち、気を遣うこともあって、随分前から、服でも靴でも私は白いものを新調していない。

 けれど、久しぶりに眩しいくらいの白さを目にしていると、やはり白は美しい色だなと私は思う。

 そして同時に、そこに切なさも感じてしまう。

 どうしても、やがて失われていく運命を感じてしまうからである。どんなに頑張っても、どんなに抵抗しても、失われていくことを変えることはできない。

 よく人生を色でたとえることがあるが、五十年近く生きてきた私は、はじまりのようなまっさらな白ではない。

 色褪せているし、うすら汚れているところもあるだろう。それでは何色に変わってしまったのかと問われても困るのだが、ともかく純白ではないことは確かである。

 それでも恥じることはないと私はどこかで思う。

 美しさばかりで人生は渡ってはいけない。色褪せ、汚れてしまった現状は、私が曲がりなりにも懸命に生きてきた証ではないのか。

 人生は美しく、そして切ない。でも、そこには生きていく意味がきっとある。

 今、私には子どもや若者と接する機会はほぼない。

 私が働いている工場には二十代後半の女性が一人はいるが、それほど仕事で接点もないので、話す機会はほとんどない。

 そして私には弟が一人いるが、私と同じく結婚していないので、伯父さんという立場になったことは一度もない。

 私の生活では、同年代か少し年下、あるいは年上の人間しか接点がないのが現状である。

 考えてみると、今の私は随分と偏った対人関係になっているのかもしれない。

 今年のお盆は父の新盆ということもあり、私の家には伯・叔父さん、伯・叔母さんが何人もやってきた。

 私もそろそろ五十の坂を上ろうとしているが、親戚のオジさん、オバさんに会うと、子どもの頃を思い出してしまう。

 子ども時代の私にとっては、一緒に暮らしていた父、母、祖父母以外で接する大人という分類の人たちだったので、良くも悪くも強く印象に残っているのかもしれない。

 さすがに今の私はいい年齢なので、説教や小言を受けることはほとんどないが、オジさんやオバさんを前にすると、少しばかり緊張するような、逆に何かしら言われることをどこかで望むような気持ちになることがある。

 たぶん、オジさんやオバさんをどこかで頼りにしている自分がまだいるのだと思う。そして、オジさんやオバさんができるだけ長く元気でいてもらえたらとも思う。

 そんな気持ちと同時に、私も誰かのオジさんになってみたいという気持ちがどこかにある。

 親戚のオジさんでもいい。近所のオジさんでもいい。何かのグループのオジさんでもいい。頼りになる年上のオジさんとして、子どもたちや若者たちと接することができたらと思う。

 誰かのオジさんに。いつか、そんな願いは叶うのだろうか。

2019.08.16 新盆を終えて

 今日で、お盆も終わり。

 お盆休みとしては残り二日あるが、あとはゆっくりするだけなので、9日間という長いお盆休みも無事に終わりそうである。

 今年は父がいなくなってからはじめてのお盆(新盆)だったので、私の家には多くの人たちが訪れ、遺影の前で手を合わせてくれた。

 そのピークは8月14日の午前中。まさに、ひっきりなしという様相だった。私たちは頭を下げ、感謝の言葉とともに、お返しの品を弔問客に渡していった。

 来てくれた人たちに応対しながら、これも父が遺していったものなのかなと私は思った。

 遺産というと、お金や不動産というのがまず頭に浮かぶが、こういった人付き合いというか、人との絆というのも大きな遺産ではないかと思う。

 父も私もお互い、人間なので、完璧な親子関係とは言えなかったが、訪れた人から父を偲ぶ言葉を聞いていると、なぜか私は嬉しいようなありがたい気持ちになった。

 正直なところ、今回の新盆に関して、面倒な気持ちも少しはあったが、終わってみれば、良い思い出となり、これから先、生きていく力を改めてもらったような気がする。

 そんな気持ちとは別に気になったことが一つ。

 今回、祭壇を自宅の和室に飾ったのだが、来てくれた人たちの中には年を取ってから膝が悪くなり、座布団の上に、うまく座れないという人も少なからずいた。

 そういうことは全く想定していなかったので、こちらは何の対策もしていなかった。今後は折り畳み椅子を用意するなどの対応も考える必要がありそうである。

 お盆も終え、夏ももう少し。今年もいくつかの思い出とともに夏が過ぎていく。

 もちはもち屋。

 何かトラブルに遭ったとき、私の頭の中には、そんなことわざが思い浮かぶ。

 素人が下手に手を出すより、専門の人間が対処したほうが手っ取り早く、確実である。

 先日、たまに乗っている自転車(ママチャリ)のタイヤの空気が空気入れでいくら頑張っても、抜けてしまうことに私は気がついた。

 今までなら、自転車屋に持っていって、修理してもらうという流れだが、案外、自分でも直せるのではないかと思い、バルブセットをホームセンターで買ってきた。

 自転車のタイヤのバルブを外してみると、空気漏れを防ぐ虫ゴムという部分が極端に劣化していた。

 恥ずかしながら、これまで私は自転車のタイヤに付いているバルブを分解したことがなく、そのような虫ゴムというパーツがあることも知らなかった。

 虫ゴムを交換し、空気を入れてみると、タイヤはパンパンのふくらみを維持。時間もかからず、部品代も100円ちょっとで済んだ簡単な修理となった。

 ほぼ誰にでもできる簡単な修理だったが、自分はちょっと変わったのかもしれないなと私は思った。

 今までなら、すぐにあきらめ、誰かに丸投げをしていたことだろう(あるいは何もしないか)。

 それがまず自分で考え、何かをしてみようと行動が生まれている。

 仕事もそれなりかもしれないが、順調にこなし、プライベートでは父をなくしたことで自覚が生まれ、それが何らかの自信につながり、少しだけ、積極的になれたのではないか。

 もし、そうだとしたら、私も少しは成長しているのかもしれない。

 今更、もち屋にはなれないけれど、何事も他人任せにせず、できることは自分でやってみようか。

2019.08.10 夏の重要問題

 夏には夏の重要問題がある。

 頭を悩まされるのが庭の雑草成長問題である。夏の雑草は生命力が旺盛で、ちょっと油断すると、庭には雑草帝国が出現する。

 昨年までは父と母にお願いをしていたのだが、今年は父がいなくなり、高齢の母一人で、雑草軍と戦うのはしんどいところがあると思う。

 今年、私も少し手伝いはしているが、休みの日に、ちまちまと雑草を一本一本、引き抜く作業は正直なところ、気が進まない。かといって、除草剤という化学兵器を使うのも、日々、生活している場所なので、ためらいがある。

 その昔、一度だけ、私は混合燃料を使用するエンジン式の草刈機(刈払機)を使ったことがある。

 最初は、機械の回転する刃によって、雑草が小気味よく刈られていく様子がとても心地よかった。しかし、時間が経つにつれ、大量の汗だくだく、腕の疲労ぷるぷるの苦痛しか感じなくなってきた。

 そういう経験があるので、草刈機というと、良いイメージはなかった。

 しかし、調べてみると、充電式、なおかつチップソーという回転刃ではなく、ナイロンのコードで雑草を刈っていくタイプがあることが分かった。

 それならエンジン式よりも軽量で、混合燃料を買う必要もなく、地面の石に当たっても刃こぼれも火花が散る心配はないらしい。

 論より証拠ということで、実物を見るため、私は取扱店に足を運んでみた。

 一通り、説明を受けたあと、デモンストレーションを見せてもらうことにした。店のとなりの空き地の雑草で試し刈り。

 ナイロンコードがちょこんと二本出ているだけで、貧弱そうな見た目だが、面白いように雑草が颯爽と刈られていく。私が知らない間に、とんでもないものが発明されたようである。

 けれど、何事も即決できない私。その草刈機は一泊二日のレンタルも可能ということなので、お盆休みでも終わったら、借りてみようかと考えている。そして使い勝手が良かったら、購入という形にもっていきたい。

 夏の重要問題を解決するため、新たな動きを考えている私である。